先日ハンガリー動乱についてのレポートを書いていました。恥ずかしながら、ハンガリーに行った事はありますが、歴史的に詳しく知らなかったので初めは色々難しかったのですが、調べるうちに楽しくなってしまって、非常に充実した課題でした。
ハンガリー動乱というのは、1956年の10月23日に始まり11月4日に集結した革命です。
正式には11月7日に終結しましたが、この事件を語る時には一般的に11月4日にソ連軍がブダペストに攻撃した時の事を終結と意味するそうです。この革命は、冷戦下の東ブロックでは重要な革命でした。なぜならば、第二次世界大戦後初めて本格的な、ソ連共産主義に対する抵抗だったからです。
第二次世界大戦時、ハンガリーは枢軸国に支持しており、敗戦後はソ連の影響下に置かれました。戦後戦勝国どうしの対立から、世界は東と西に分裂。共産主義を支持するソ連を中心とした東ブロック、資本主義を支持するアメリカ、西ヨーロッパの西ブロックに分裂したのです。このようなプロセスを経て、冷戦に発展しました。
スターリニズムといった政治モデルをそのままハンガリーに応用した結果、ハンガリー市民の生活は困窮しました。当時のリーダー、マーシャル・ラコーシは秘密警察を結成し、一党独裁政治を設立しました。経済も計画経済に移行したのですが、その結果、店には商品がなく、市民は食券なるものをもってわずかな食料を求め何時間も並ぶ日々。特に農民の生活は苦しく、秘密警察監視のもと多重な税金を納めなければ成らず、多くの農民は海外へ移住したそうです。
教育システムも共産主義のスローガンを教え込まれるなど、徹底したものでした。大学では西側の資料を手に入れる事ができず、徹底的に西から閉ざされ、言論の自由も奪われた環境だったのです。
ハンガリーだけではなく、他の旧共産圏、チェコスロバキア、ポーランド、東ドイツなども市民の生活は苦しく、スターリンの死後、各地で暴動が起こりました。初めは東ベルリンの労働者によるものです。彼らの勤務環境の劣悪さなどから暴動を起こし、ソ連軍が鎮圧しましたが、ハンガリーやチェコスロバキアにもその影響は広がったのです 。
そこで、スターリン死後新たなリーダーとなったのが、ニキータ・フルシチョフでした。彼はスターリンが作り上げた厳しい体制を緩和していく事を表明。一方で、西ドイツがNATOに加盟した事を機にワルシャワ条約機構を設立。ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、アルバニア、ブルガリア、ポーランド、旧ソ連、ルーマニアが加盟し、東側の結束を固めました。
しかしハンガリーでは、ラコーシが未だにもスターリンのような厳しい政策を続行していました。当時彼はハンガリー労働党の書記長でしたが、その地位と同時に首相のイスタバン・ドビを引き摺り下ろし、同時に政党そして政府のトップなってしまいました。旧ソ連もこれには黙っておらず、ソ連の方針とは異なる事から、そしてラコーシの力を止める為に新たな人物を首相に推薦しました。それが有名なイムレ・ナジです。彼は1953年6月4日に彼は首相になりました。
彼も同じ共産主義者でしたが、ラコーシによって敷かれた厳しい政策を緩和しました。農民の税金を減らし、農産物生産の効率を上げるよう努力し、労働者階級の生活水準を上げようと奮闘。さらには、秘密警察によって逮捕された人々を解放しました。その中には、ヤノス・カダールもいました。彼はハンガリーから恐怖やプレッシャーを取り払う事にもつとめました。よって市民または政府内でもナジを支持する物が増えたのです。しかし、ハンガリー労働党だけはナジを快く思わず、結果ナジは孤立し、最終的に1955年の4月18日に首相ではなくなりました。
ハンガリーだけではなく、他の旧共産圏、チェコスロバキア、ポーランド、東ドイツなども市民の生活は苦しく、スターリンの死後、各地で暴動が起こりました。初めは東ベルリンの労働者によるものです。彼らの勤務環境の劣悪さなどから暴動を起こし、ソ連軍が鎮圧しましたが、ハンガリーやチェコスロバキアにもその影響は広がったのです 。
そこで、スターリン死後新たなリーダーとなったのが、ニキータ・フルシチョフでした。彼はスターリンが作り上げた厳しい体制を緩和していく事を表明。一方で、西ドイツがNATOに加盟した事を機にワルシャワ条約機構を設立。ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、アルバニア、ブルガリア、ポーランド、旧ソ連、ルーマニアが加盟し、東側の結束を固めました。
しかしハンガリーでは、ラコーシが未だにもスターリンのような厳しい政策を続行していました。当時彼はハンガリー労働党の書記長でしたが、その地位と同時に首相のイスタバン・ドビを引き摺り下ろし、同時に政党そして政府のトップなってしまいました。旧ソ連もこれには黙っておらず、ソ連の方針とは異なる事から、そしてラコーシの力を止める為に新たな人物を首相に推薦しました。それが有名なイムレ・ナジです。彼は1953年6月4日に彼は首相になりました。
彼も同じ共産主義者でしたが、ラコーシによって敷かれた厳しい政策を緩和しました。農民の税金を減らし、農産物生産の効率を上げるよう努力し、労働者階級の生活水準を上げようと奮闘。さらには、秘密警察によって逮捕された人々を解放しました。その中には、ヤノス・カダールもいました。彼はハンガリーから恐怖やプレッシャーを取り払う事にもつとめました。よって市民または政府内でもナジを支持する物が増えたのです。しかし、ハンガリー労働党だけはナジを快く思わず、結果ナジは孤立し、最終的に1955年の4月18日に首相ではなくなりました。
そこで、立ち上がったのはハンガリーの大学生達。
ペトフィサークルという学生団体(1955年三月頃結成)では、10か条の要求をつくりソ連崇拝の政治に意義を訴えました。他の団体では、16か条の要求をつくり、抗議をはじめます。Szabad
Nepという新聞を作り、彼らの思想を訴え続けました。彼らの思想は、ナジを国のリーダーとし、ソ連軍をハンガリーから追い出すこと、そして普通選挙を行い、公平で平等な社会を作る事でした。
彼らは、同じ共産主義国として、ユーゴスラビアがいいモデルだと思っていたようです。
ティトーは、1948年、正式にソ連とは異なる形で共産主義を行う事を表明しました。徹底した計画経済ではなく、ある程度自由な経済活動を行える状況をつくったのです。旧ソ連が西側に対抗する為につくったワルシャワ条約機構にもユーゴスラビアは加盟せず、西側にも東側にも加盟しない中立な立場で、ユーゴ独自の共産主義をおこなったのです。当時ユーゴスラビアには、主にヴォイヴォディナ地方に、504,000人のハンガリー人が住んでおり、彼らの生活は当時のハンガリー市民に比べたら比較的自由で豊かなものでした。彼らはビザなしでハンガリーだけでなく西ローロッパへも行く事ができたのです。
つまり、ハンガリーの人々は、当時西側のような資本主義社会を望んでいたわけではなく、democratic-socialismというような、ある程度の自由がある新しい社会主義、また共産主義の世界を望んでいたわけです。当時の革命には決してナショナリズム的な運動はみられず、ただ旧ソ連方式の独裁政治と戦ったわけです。
1956年の10月、学生を中心とした市民がデモを起こし、瞬く間に革命へと発展しましたが、残念な事に旧ソ連に鎮圧されてしまいました。当時この革命はアメリカや西ヨーロッパで報道され、一般的意見としては民衆はハンガリーを支持していたと言われています。しかし、政治家達は具体的にハンガリーを助ける事はしませんでした。一つの理由に、冷戦下の旧ソ連を攻撃することを恐れたというのがあります。それは、当時ソ連は軍事力、科学の分野では世界トップレベルであり、その独裁的で一度触れたら爆発しそうな極端な一面をもっていたので、西側はただ単に其れを恐れたのではないかということ。二つ目は、当時スエズでおこった、第二次中東戦争なるものが勃発。オイル問題など西側を脅かす事件がおき、ハンガリーが二の次になっていたということが、理由として上げられます。またアメリカでは、大統領選が行われており、このスエズ事件の対処を巡って候補者が奮闘中であり、アメリカではスエズでの対処が最優先事項だったんですね。
市民のデモから革命に発展したものの、ナジは決して其れを望んでいたわけではなく、ユーゴスラビアと同じように中立の立場をのぞんでおり、それを記した文書を国連にも送っています。しかし、国連もハンガリーを見捨てましたし、旧ソ連も容赦なくハンガリーをせめました。以後、ハンガリーはベルリンの壁崩壊の1989年まで、共産主義体制をしいられました。革命に関わった人たちは2年後処刑。イムレ・ナジもその中のひとりでした。
この革命は果たして無駄だったのかというのは、愚問だと思います。既にこのとき、世界はソ連スタイルの共産主義の未来をみたはず。そして冷戦下という特殊な状況下でおきた革命に対しての世界の対応。国連がある紛争をきちんと解決したという話を聞いた事がありません。もっとこの事件を見直して、政治的な優先順位や価値観を考え直さなければいけないのではと思うのです。
つまり、ハンガリーの人々は、当時西側のような資本主義社会を望んでいたわけではなく、democratic-socialismというような、ある程度の自由がある新しい社会主義、また共産主義の世界を望んでいたわけです。当時の革命には決してナショナリズム的な運動はみられず、ただ旧ソ連方式の独裁政治と戦ったわけです。
1956年の10月、学生を中心とした市民がデモを起こし、瞬く間に革命へと発展しましたが、残念な事に旧ソ連に鎮圧されてしまいました。当時この革命はアメリカや西ヨーロッパで報道され、一般的意見としては民衆はハンガリーを支持していたと言われています。しかし、政治家達は具体的にハンガリーを助ける事はしませんでした。一つの理由に、冷戦下の旧ソ連を攻撃することを恐れたというのがあります。それは、当時ソ連は軍事力、科学の分野では世界トップレベルであり、その独裁的で一度触れたら爆発しそうな極端な一面をもっていたので、西側はただ単に其れを恐れたのではないかということ。二つ目は、当時スエズでおこった、第二次中東戦争なるものが勃発。オイル問題など西側を脅かす事件がおき、ハンガリーが二の次になっていたということが、理由として上げられます。またアメリカでは、大統領選が行われており、このスエズ事件の対処を巡って候補者が奮闘中であり、アメリカではスエズでの対処が最優先事項だったんですね。
市民のデモから革命に発展したものの、ナジは決して其れを望んでいたわけではなく、ユーゴスラビアと同じように中立の立場をのぞんでおり、それを記した文書を国連にも送っています。しかし、国連もハンガリーを見捨てましたし、旧ソ連も容赦なくハンガリーをせめました。以後、ハンガリーはベルリンの壁崩壊の1989年まで、共産主義体制をしいられました。革命に関わった人たちは2年後処刑。イムレ・ナジもその中のひとりでした。
この革命は果たして無駄だったのかというのは、愚問だと思います。既にこのとき、世界はソ連スタイルの共産主義の未来をみたはず。そして冷戦下という特殊な状況下でおきた革命に対しての世界の対応。国連がある紛争をきちんと解決したという話を聞いた事がありません。もっとこの事件を見直して、政治的な優先順位や価値観を考え直さなければいけないのではと思うのです。
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