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Hungarian Revolution and Yugoslavia (2)

The Petofi Circle and the Association of Hungarian University and College Union (MEFESZ) are important organization. The Petofi Ciecle published "ten points", while the MEFESZ published the "six-teen points." Mainly their requirements were similar. 1) Imre Nagy should be a new leader in Hungarian government 2) Soviet armies should get away from Hungary 3) The government should establish new economic policy 4) The government should guarantee equal right and justice. First, students began demonstration on 23 October, 1956 to demand radio building to broadcast their points. However director refused their requests. Soon, AVH began to attack. Immediately the demonstration turned to revolution. Soviet army continued to attack in Budapest. On 28 October, the Soviet army stopped attack, then Nagy established a new government. However, when he knew that the Soviet army would come to attack in Budapest again, he sent a message to the UN on 1st November. In a message,

Hungarian revolution and Yugoslavia (1)

 I wrote a paper about the Hungarian Revolution 1956.  Actually it was interesting task for me. Today I will write about the revolution. The Hungarian Revolution was the first serious revolt against the Soviet Union's communist regime after the Second World War. The aim of the revolution was to establish a new government, a new economic policy without any Soviet controls. Under the one political party and the Soviet controls, Hungarian people were always under the terror and unsecured.  Matyas Rakosi (1892-1971) conducted total dictatorship in Hungary based on the Soviet system. First of all, the Political Security Department (later re-named to AVH) was set up in Pest.Their task was to eradicate of democratic political party and intellectual work, to monitor mail and phone conversation, even private home.  Actually Hungary had mainly four political parties, such as the Hungarian Communist Party (HCP), the Independent Smallholders (Smallholders), the Social Democrats (S

経済危機と12月

12月21日、リュブリャナで大きなプロテストがありました。 スロベニアはいま不景気です。少し給料や税金のことを述べますと、平均月収は、800から900€と言われていて、ちなみに消費税は20%です。学生のアルバイト状況は、だいたい3~7€です。ただし、高額アルバイトは、言語学校や塾のようなところで、だいたいバーやレストランで働く場合は5€がいい方です。さらに、学生でも給料から約22%ほど税金をとられるので、私の場合は300€稼ぐというのは非常に難しいというのが実情なんです。200€ちょっとくらいが毎月の収入でしょうか。奨学金もここは300€が最高額だと思います。クレジットカードは仕事がある人のみ持つ事ができ、ローンも同じ条件じゃないとできません。 特に若者にとっても仕事を探すのは難しく、高学歴の人はドイツやスイスへ移住していい職を探そうとしています。また、大学生はスロベニア人の場合、修士課程までは無料で通えますが、博士課程の場合、全生徒は2000€ほど学費を払っています。しかし、今年の3月から政府は大学へ援助を辞める事を発表し、ノヴァゴリッツァの学生は学部から2000€払わないといけないそうです。 以前物価を紹介した記事を載せましたけど、少しずつ値段が変わっています。 バスも一回乗るたびに、1.2€になり、学生ボンもあるところでは値上げしています。あるところはコーヒーが1,8€になってしまいました。野菜なども、少しずつですが値上げされています。なのに、収入は下がる一方で、仕事がないという状況です。また、銀行のアカウントもマイナスを記録する事もある中、そこでスロベニア人達がデモを起こしたわけです。 物価は日本より安いと思いますが、住んでみると当然の事ながら収入も低いんですよね。 この危機は今に始まった事ではないと言いますけど、心配な状況です。 しかし、12月、ここはveseli decemberといって、happy decemberという事なのですが、街の中心は、特に夜に連日人で賑わいました。 ホットワインを片手にイルミネーションを眺めるひとでごった返してました。お店ではクリスマスのプレゼントやセールの商品を狙って沢山買い物をする人もいたし。人の話ですが、実際40%の人はもろに影響を受けているそうですけど、あとはそこまで深刻な事態ではない

ハンガリー動乱と(ちょっと)ユーゴスラビア

先日ハンガリー動乱についてのレポートを書いていました。恥ずかしながら、ハンガリーに行った事はありますが、歴史的に詳しく知らなかったので初めは色々難しかったのですが、調べるうちに楽しくなってしまって、非常に充実した課題でした。 ハンガリー動乱というのは、1956年の10月23日に始まり11月4日に集結した革命です。 正式には11月7日に終結しましたが、この事件を語る時には一般的に11月4日にソ連軍がブダペストに攻撃した時の事を終結と意味するそうです。この革命は、冷戦下の東ブロックでは重要な革命でした。なぜならば、第二次世界大戦後初めて本格的な、ソ連共産主義に対する抵抗だったからです。 第二次世界大戦時、ハンガリーは枢軸国に支持しており、敗戦後はソ連の影響下に置かれました。戦後戦勝国どうしの対立から、世界は東と西に分裂。共産主義を支持するソ連を中心とした東ブロック、資本主義を支持するアメリカ、西ヨーロッパの西ブロックに分裂したのです。このようなプロセスを経て、冷戦に発展しました。 スターリニズムといった政治モデルをそのままハンガリーに応用した結果、ハンガリー市民の生活は困窮しました。当時のリーダー、マーシャル・ラコーシは秘密警察を結成し、一党独裁政治を設立しました。経済も計画経済に移行したのですが、その結果、店には商品がなく、市民は食券なるものをもってわずかな食料を求め何時間も並ぶ日々。特に農民の生活は苦しく、秘密警察監視のもと多重な税金を納めなければ成らず、多くの農民は海外へ移住したそうです。 教育システムも共産主義のスローガンを教え込まれるなど、徹底したものでした。大学では西側の資料を手に入れる事ができず、徹底的に西から閉ざされ、言論の自由も奪われた環境だったのです。 ハンガリーだけではなく、他の旧共産圏、チェコスロバキア、ポーランド、東ドイツなども市民の生活は苦しく、スターリンの死後、各地で暴動が起こりました。初めは東ベルリンの労働者によるものです。彼らの勤務環境の劣悪さなどから暴動を起こし、ソ連軍が鎮圧しましたが、ハンガリーやチェコスロバキアにもその影響は広がったのです 。 そこで、スターリン死後新たなリーダーとなったのが、ニキータ・フルシチョフでした。彼はスターリンが作り上げた厳しい体制を緩和していく事を表明。一

The Lady アウンサンスーチー 引き裂かれた愛を観て

昨日映画を観ました。 これは、ビルマのアウンサンスーチー本人と、彼女を支えた家族の知られざる物語。 スーチーの事は皆さんご存知だと思います。自宅軟禁を合計15年も強いられ、家族と引き離され、夫の死に目に会えずとも、その志を曲げず、ビルマの民主化の為に、ビルマの為に人生を捧げている人です。彼女はアジア人女性初めてのノーベル平和賞を受賞した人でもあります。こういった事実を踏まえつつ、映画では政治家としてのスーチーでだけではなく、妻や母としての彼女も伝えています。 1988年にスーチーは母の看護のためにビルマへ帰りました。そこで見た物は学生による民主主義運動が軍事政権によって武力で制圧されているものでした。夫のマイケルも二人の息子とともにビルマへ来てその現状を目の当たりにします。彼女の滞在期間中民主主義運動家達が彼女を訪れ選挙への出馬を願い出るのです。彼女は迷った末に民衆の前で出馬を宣言しますが、そこからは軍事政権との長い長い戦いが始まるということと、家族とイギリスで一緒に暮らし続ける事はできないという事を意味していました。 スーチーは、どこへ行っても熱狂的に歓迎され、1990年の総選挙では、485議席中、392議席獲得という圧倒的な勝利でした。しかし、軍事政権はこの選挙結果を無効と見なし、支持者を投獄。処刑や強制労働をさせるなどしてスーチーの活動を制圧。 そこで夫のマイケルが動きだします。彼はノーベル賞委員会にスーチーが非暴力でビルマの民主化運動を行っているということを知らせ、彼女の受賞を促したんです。彼が働きかたからこそ受賞できたんです。そのお陰で世界はビルマの政情やスーチーの非暴力による民主化運動に感銘をうけ、ビルマやスーチーはさらに注目されるようになったんです。 しかし彼女が自由になる事はなく、軟禁生活は1995年まで続きました。彼女が軟禁されていないときは、イギリス大使館で家族と電話連絡ができましたが、接続は思わしくなく、時間はわずかに限られていました。軟禁状態の時は文通のみの連絡だったのです。(軟禁は1995年まで続き、00~02、03〜10と再び軟禁されました) 夫マイケルは、1988年にスーチーがビルマに来た時から、1999年に前立腺癌で亡くなる前に、5度スーチーに会っています。映画によれば、スーチーは彼に言います。離婚してもいい

ボスニアへ再び③

翌日は、歩いてポトチャリのメモリアルセンターへ向かいました。 猛暑でしたが、すごい人だかり。普段は人気のないスレブレニッツァですが、この日はボスニアまたは、世界から人が集まるそうです。ムスリムのお祈りの歌が響き、道路にはチェバプチチやジュース、コーヒーが売られています。 途中でなんと私の名前を呼ぶ声が聞こえました。 ふとみると、私の仲間のうちのひとりではありませんか!うわあああああ! もう見つけた瞬間人をかき分けてハグしたよー。それはまるで映画のワンシーン。 元気?学校はどう?今年の調子はどう?とかたわいない話をする私たち。去年は私、ボスニア語全然わからなかったけど、なんとかできてすごく嬉しかった。 みんな私の事を覚えてくれて、昨日あったように普通に、でも暖かく再会できて、心にしみました。野原でコーヒーを飲んだ後、私たちは博物館に向かいました。 中に入ると、ただっぴろいコンクリートの部屋。 壁には当時非難していた人々の写真や、発掘作業の様子、親をなくして彷徨う子供の写真などが展示してありました。更に奥に進むと、光もあたらない暗い場所が広がります。携帯電話の灯りをつけて進みます。すると血痕と思えるようなもの、狙いを定めるために描かれた的のようなものが壁に描かれており、生々しい跡が残っておりました。ただただ重くなりましたね。 言葉もなく、そのまま私は一旦友達に別れを告げて宿へ荷物を取りに向かいまして、ファミリーに別れを告げてサラエボへ向かいました。 次はサラエボ偏です。

ボスニアへ再び②

簡単な自己紹介をして、部屋へ案内された私はいささか緊張しておりました。 どうやら、初めて本物の日本人を見たようで、ホストファミリーの人もなんだかそわそわ。 でも、テラスに案内してくれてコーヒーと自家製のジュースをごちそうになりました。 1時間くらい話した後、私は歩いてポトチャリのメモリアルセンターに行きました。 猛暑だったので、扱ったけど、途中ピースマーチに参加している人を見て、一気に興奮し早歩きで向かいました。しかし、本当に暑い。照りつける太陽の日差しの強さと言ったら、もし日焼け止めを塗らなかったら、絶対やけどしちゃうよーと思う程です。 30分くらいかな?歩いてメモリアルセンターに到着。すでに人ごみで一杯です。去年の今頃はまだ森の中を歩いていたので、この光景を見るのは初めて。たくさんのバス、タクシー、車が道に駐車され、たくさんの警察がうろうろ。そして今年埋葬される遺体をおさめるお墓が建てられていました。このお墓は緑色をしているので、どれが新しいお墓なのか一目瞭然です。 早速博物館の方へ向かいました。たくさんの人が日陰で休んでいます。博物館はこの日閉鎖されていたのですが、向井側にある大きな部屋にたくさん人が入っている様子。私もその波にのって向かいました。なんとそこには、緑の棺が並べられていました。そうです。今年埋葬される遺体がならんでいたのです。今年は520体が埋葬されます。死者を特定するのにDNA鑑定などをやるので、時間がかかるんですね。棺には、生年月日、名前があり、誰がいつ死んだのかわかります。ただ広い部屋に均一に並べられている棺をみると何とも言えない重い雰囲気。家族が棺と対面して、涙する光景は何とも辛いです。17年後にやっとですからね。そこに群がるフォトグラファーが一斉にシャッターを押している光景を見ると・・・。おそらく来年も何百体の遺体の身元が判明し、埋葬される事でしょう。 そこを離れて、周りをブラブラ。日本人が手ぶらで歩いている様子をまじまじとみるボスニア人の視線に耐えながら(笑)かつてテントを建てて泊まった場所に行きました。まだ友人はいない様子。時が経つのは早いなと重い、そこを後にしました。 また歩いて戻る中、途中車が私の横にとまったのです。こわいよーと思ったら、助手席に座っていた少年が私に席を譲ったではありませんか!かれが後部