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The Lady アウンサンスーチー 引き裂かれた愛を観て

昨日映画を観ました。 これは、ビルマのアウンサンスーチー本人と、彼女を支えた家族の知られざる物語。 スーチーの事は皆さんご存知だと思います。自宅軟禁を合計15年も強いられ、家族と引き離され、夫の死に目に会えずとも、その志を曲げず、ビルマの民主化の為に、ビルマの為に人生を捧げている人です。彼女はアジア人女性初めてのノーベル平和賞を受賞した人でもあります。こういった事実を踏まえつつ、映画では政治家としてのスーチーでだけではなく、妻や母としての彼女も伝えています。 1988年にスーチーは母の看護のためにビルマへ帰りました。そこで見た物は学生による民主主義運動が軍事政権によって武力で制圧されているものでした。夫のマイケルも二人の息子とともにビルマへ来てその現状を目の当たりにします。彼女の滞在期間中民主主義運動家達が彼女を訪れ選挙への出馬を願い出るのです。彼女は迷った末に民衆の前で出馬を宣言しますが、そこからは軍事政権との長い長い戦いが始まるということと、家族とイギリスで一緒に暮らし続ける事はできないという事を意味していました。 スーチーは、どこへ行っても熱狂的に歓迎され、1990年の総選挙では、485議席中、392議席獲得という圧倒的な勝利でした。しかし、軍事政権はこの選挙結果を無効と見なし、支持者を投獄。処刑や強制労働をさせるなどしてスーチーの活動を制圧。 そこで夫のマイケルが動きだします。彼はノーベル賞委員会にスーチーが非暴力でビルマの民主化運動を行っているということを知らせ、彼女の受賞を促したんです。彼が働きかたからこそ受賞できたんです。そのお陰で世界はビルマの政情やスーチーの非暴力による民主化運動に感銘をうけ、ビルマやスーチーはさらに注目されるようになったんです。 しかし彼女が自由になる事はなく、軟禁生活は1995年まで続きました。彼女が軟禁されていないときは、イギリス大使館で家族と電話連絡ができましたが、接続は思わしくなく、時間はわずかに限られていました。軟禁状態の時は文通のみの連絡だったのです。(軟禁は1995年まで続き、00~02、03〜10と再び軟禁されました) 夫マイケルは、1988年にスーチーがビルマに来た時から、1999年に前立腺癌で亡くなる前に、5度スーチーに会っています。映画によれば、スーチーは彼に言います。離婚してもいい...