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ネルソン・マンデラ

12月5日にネルソン・マンデラ氏が死去しました。 ここスロベニアでもニュースになりました。 偉大な人だなと誰もが思います。 色々な不正義や不条理な事に文句のある人は山程いるけど、 実際真っ向から、戦う事ができる人はどれほどいるんだろう。 マンデラはなんて偉大な人だろう。。 人が行った事が無い道ダカラこそ非難されて続けたんだろうけど、それでも消えなかったアパルトヘイト撤廃の情熱。 信念を貫き通すというのは、本当に凄い。

解体ユーゴスラビア

この本は、 1991 年に書かれた。ユーゴスラビア戦争が始まり、まさに一つの国が解体しようとしていた時、今現在もベオグラードに在住の山崎氏が現地の人々に行ったインタビューを集めた本だ。  最初にユーゴスラビアが建国されたのは、第一次世界大戦後の 1917 年。セルビア人、クロアチア人、スロベニア人によって建国された、南スラブ人の国だった。 3 つの民族はそれぞれ、オスマン帝国、ハプスブルク帝国に支配され、政治的にも文化的にも抑圧されてきた。よって 3 つの民族が力を合わせて、民主的な国家を建国しよういう目標のもと、ユーゴスラビアを建国した。しかし現実は民族的に人口の多いセルビア人による独裁国家となってしまった。少数派のスロベニア人やクロアチア人にとってはハプスブルク帝国の支配となんら変わらなかったのだ。  この憎悪は第二次世界大戦で明るみに出た。クロアチアがウスタシャ、セルビア人がチェトニク、また、共産主義に賛同する者達がパルチザンを結成し、ユーゴスラビア国内で虐殺がおこった。ウスタシェはクロアチア独裁国家を作るために、セルビア人を老若男女問わず虐殺し、無理矢理カトリック教に改宗を強制した。チェトニクはセルビア王国の復興をスローガンに、その思想に反する者を虐殺した。特にウスタシェのしたことは、ナチスドイツがユダヤ人にしたことよりも残虐だと言われているが、民族対立を恐れた、ティトー率いるユーゴスラビア政府はこのことを公にしなかった。  ティトーの死後は、彼の体制や民族に関する批判が公に語る事ができる様になり、過去に隠蔽された真実が明るみに出始めた。政治家達はそれを利用して人々の憎悪をかき立てた。  ティトーが過去をうやむやにしてしまったことは正しいとは思えないが、インタビューから解るのは人々がやっとティトー政権のもと、民族や宗教に関係なく、ユーゴスラビアで幸せな時間を過ごす事ができたという事だ。混血も多く、自分の事をユーゴスラビア人だと名乗る人がいる程、ユーゴスラビアはまとまった国だったのだ。   50 年以上平和だった国は、政治家のナショナリズムやそれを煽るマスメディアの力は、急激な速さで人の心を変えてしまった。メディアに流される人、たとえ真意とは反していても雰囲気にのって内戦を煽る人がいたことは非常に悲しか

バルカンの心

久しぶりの読書でした。今回は田中一生さんが書いた「バルカンの心」について。 この本は、著者の田中一生氏が 50 年以上かけて行った、バルカン研究の総まとめの本である。彼は 1960 年代、国費留学で旧ユーゴスラビアへ渡り、ユーゴスラビア文学を研究した。帰国後はユーゴ作家の翻訳や、セルビア語日本語辞書の編纂に携わり、バルカン文化を日本へ広めるために多大な貢献をした人物である。 バルカンというのは、面積で言うと日本程の広さだが、その歴史、文化や言語など、全てにおいてバラエティーに富んでおり、奥深い。本書は、歴史と文化、文学、そしてバルカンの都市の 3 つの分野に分かれている。この本には、バルカンの人々へのあくなき関心に溢れている。 特に感銘を受けたのはボスニア人文学者、イヴォ・アンドリッチについての考察である。彼は戦後初めて旧共産圏からノーベル文学賞を受賞した。「ドリナの橋」「ボスニア物語」「サラエボの女」「呪われた中庭」の 4 つが特に有名で、彼の小説には多かれ少なかれ橋が出てくる。それはなぜか。田中氏の考察によれば、アンドリッチは東洋と西洋、多くの民族と宗教が混在し、反発し合うボスニアに生まれ苦しんできた。よって、人々を結びつける橋に強い関心を持つようになったといっている。実際、アンドリッチも晩年このように語っている。「この世の全ては橋です。・・・微笑みも、ため息も、まなざしも。なぜなら、この世の全ては架橋される事、向こう岸に至る事を願っているのですから。つまり他の人と理解し合う事を熱望しているのです。」 外国人にとって、政治的また多民族共存の問題から生ずるバルカンの人々の苦悩を理解する事は非常に難しい。しかし田中氏は、外からバルカンを見るだけはなく、生活者の立場になって内部からバルカンを見ようと積極的に人と関わった。さらに歴史の根源を辿るために様々な都市を訪れ、人々の心にある深い本音、あるいは核心に迫ろうと尽力した。だからこそ、どの記事にも田中氏の幅広い教養がにじみ出ており、普通に暮らしているだけでは見えない、バルカンの本質がみてとれる。 私の専攻はバルカン史だ。それはとても重厚で、勉強すればする程、到底この地域を理解するのはまだまだ先だと身にしみている。彼らが歩んできた歴史、乗り越えて

仕事

いやはや。 少し宣伝です。スロベニア発のハンドメイドジュエリーが日本に上陸です!! どういう事かと言いますと、私がアルバイトしている会社がオンラインショップでジュエリーを発売する事になりまして、このブログで紹介したいと思います! https://www.facebook.com/pages/Minimalvs-Japan/194307724063971  これはfacebookページ。 http://www.creema.jp/c/minimalvs これはcreemaというハンドメイド商品を販売しているサイトですが、ここに出店しています! http://www.amazon.co.jp/s?ie=UTF8&field-keywords=minimalvs&index=jewelry&search-type=ss そして夏にはamazon.co.jpでも販売を開始しました! 是非ご覧になってみて下さい!

ボスニアへ再び! :)

ボスニアにまた行ってきました。 今回は、友達とその妹とお母さんと行ってきました。 私が大のボスニア好き、バルカン好きと知っている友達が、彼女の親戚が住む村へ招待してくれたのです。この時期はセイント・ピーターのお祝いがあるという事で、伝統的な行事が見れるから絶好のチャンスだという事に。リュブリャーナから車でおよそ5時間かけて東ボスニア、セルビアの国境にちかいむらビイェリナ(Bijeljina)という村に滞在しました。 ついた夜はババ・バイカ(おばあちゃんの名前)が出迎えてくれて、夕飯を食べて、セイント・ピーターのお祭りの一部であるリラを見に行きました! リラとは、桜の木の皮で作った旗のようなものです。子供達は学校に集まって誰が一番リラを奇麗にふれるかを競うのです! リラ。道端で沢山売られてました。一つ2.5euroくらい。 リラに火をつけて歩く少年。 夜には子供達が各家にお菓子を奪いにやってきます。 元気に走ってやってくる子供達は無邪気で可愛いという一言につきます! 一泊目は電気が泊まってしまうハプニングもありましたが、村の人の温かさにほっとした一日でした。二日目も大冒険です!;)

書評 ①

久しぶりでーす。ご無沙汰です。まったくもって何も書いていませんでした。 しかし、本日からエンジン全開で書いていこうと思います。なにとぞよろしく御願いします!!!! 最近本を読む事を始めました。学生なので読む時はどかんと読むのですが、それは教科書的な本。映画やドラマを楽しむように本を楽しむ事を長い事していませんでした。久しぶりに日本語でノンフィクションの本を読みたいなと思い、手に入れたのが石井広太さん作の「レンタルチャイルド〜神に弄ばれる貧しき子供達」でした。 私は彼らの物語に夢中になって、一気に読みました。ここの子供達は親に捨てられ、または売られてしまった。マフィアの連中に故意に手足を切り落とされ、ある物は目をつぶされ、彼らの手下となり物乞いをさせられている。人は普通の貧しい子供にお金をおとさない。障害を持つ割れな子供達に人は沢山の金を払ってくれる。 しかし、彼らが大人になると人は彼らを障害者として見下す。母国語の読み書きもままならず、正しく喋る事ができない彼らに、社会進出など毛頭できるわけがない。彼らは音になってもスラムで生きていく事しかできない。やがて彼らは心底にくんでいたマフィアと同じように、子供を傷つけて彼らから金を搾取する。悪循環が断ち切られる事はないのだ。 子供達は人に利用され、裏切られ、虫けらのような扱いを受け続けている。精神的にも肉体的にも劣悪な環境にさらされ続けている。そんな子供達を支えているのは、仲間同士の友情、誰かに必要とされている気持ち、仲間を守りたいという気持ち、そして希望だ。決して目に見える事のない、でもとても強い感情が、彼らをこんなにも逞しく、強くさせているのかと思うと、非常に心打たれた。彼らはお金も、教養も、知識もなく、その日の食料にも困っている。しかし彼らは人間として大切な物を持っているのではないか。懸命に生きている彼らから、生きる事の尊さを教わったように思う。 私は、人生は自分の意志や努力で切り開いていくものだと信じている。しかし、圧倒的な現実を突きつけられたとき、人は無力だと思った。きれいごとでは絶対切り抜けられないこともある。結局、人は運命や宿命に支配され、その大きな力に逆らえないまま一生終えてしまうのではないかと怖くなった。しかし、それでも私たちにできる事は「懸命」に生きていく事しかない。 ムンバ

最近のニュースに思う!

最近のニュースというのは、バルカン関係のある事です。 ユーゴスラビア紛争から約19年近く経過していますが、いまだに民族間の憎しみは消えないようです。 当たり前なんですけど、ナショナリズムや分離主義的な思考のままでは、新の和解は望めないと思う今日のこのごろ。 特に、ボスニアはクロアチア人、セルビア人、ボスニア人が共存してきた国家。今は民族ごとに住み分けされて、政治も民族ごとに政党があって、ニュースを見れば、各民族同士、各国同士いがみ合っている状態がとりあげられています。 なんだかな〜と思います。 紛争があってその一部が世界にとりあげられてるけど、人が温かくオープンで、純情で、明るくて、そんな人たちが素晴らしい文化を作り上げられてきて、ここのスロベニア人までその文化を楽しんでいるんです。もったいないです。 紛争は本当に悲惨で悲しいことです。被害者の傷が癒える事はもしかしたらないかもしれないけど、今後生まれてくる新しい世代、今後のバルカンの行く末を考えたら、前を見て協力していくことが絶対大事だと思うんです。 憎しみからは何も生まれないし、手を取り合って、宗教や民族、悲しい過去を乗り越えてほしと切に思います。

Bonの値上げ!

1月になってから学生のミールクーポンである、Študenski Bonが値上がっています。 学生であるなら、誰でもが利用できるこのクーポンの値上げは財布に響きます。 一気に40¢も上がってるレストランもあれば、もうボンがない所もあって、不景気のなみはとどまるところを知りません。近い将来ボンがなくなっちゃうかもしれないな〜。 ボンだけじゃなくて、一般的な物の値段もあがっている今日この頃。 でもアルバイトの時給は上がる事もなく。。日本でも不景気だなんだと報道がありますが、 当時親の庇護のもと生活していた身分として、現実的に感じる事はなかったんですよね〜。 日本のニュースをみていると、平和な国だなと思います。 3月に一時帰省するので、そこら辺もじっくり観察してこようと思います。

Hungarian Revolution and Yugoslavia (2)

The Petofi Circle and the Association of Hungarian University and College Union (MEFESZ) are important organization. The Petofi Ciecle published "ten points", while the MEFESZ published the "six-teen points." Mainly their requirements were similar. 1) Imre Nagy should be a new leader in Hungarian government 2) Soviet armies should get away from Hungary 3) The government should establish new economic policy 4) The government should guarantee equal right and justice. First, students began demonstration on 23 October, 1956 to demand radio building to broadcast their points. However director refused their requests. Soon, AVH began to attack. Immediately the demonstration turned to revolution. Soviet army continued to attack in Budapest. On 28 October, the Soviet army stopped attack, then Nagy established a new government. However, when he knew that the Soviet army would come to attack in Budapest again, he sent a message to the UN on 1st November. In a message,

Hungarian revolution and Yugoslavia (1)

 I wrote a paper about the Hungarian Revolution 1956.  Actually it was interesting task for me. Today I will write about the revolution. The Hungarian Revolution was the first serious revolt against the Soviet Union's communist regime after the Second World War. The aim of the revolution was to establish a new government, a new economic policy without any Soviet controls. Under the one political party and the Soviet controls, Hungarian people were always under the terror and unsecured.  Matyas Rakosi (1892-1971) conducted total dictatorship in Hungary based on the Soviet system. First of all, the Political Security Department (later re-named to AVH) was set up in Pest.Their task was to eradicate of democratic political party and intellectual work, to monitor mail and phone conversation, even private home.  Actually Hungary had mainly four political parties, such as the Hungarian Communist Party (HCP), the Independent Smallholders (Smallholders), the Social Democrats (S

経済危機と12月

12月21日、リュブリャナで大きなプロテストがありました。 スロベニアはいま不景気です。少し給料や税金のことを述べますと、平均月収は、800から900€と言われていて、ちなみに消費税は20%です。学生のアルバイト状況は、だいたい3~7€です。ただし、高額アルバイトは、言語学校や塾のようなところで、だいたいバーやレストランで働く場合は5€がいい方です。さらに、学生でも給料から約22%ほど税金をとられるので、私の場合は300€稼ぐというのは非常に難しいというのが実情なんです。200€ちょっとくらいが毎月の収入でしょうか。奨学金もここは300€が最高額だと思います。クレジットカードは仕事がある人のみ持つ事ができ、ローンも同じ条件じゃないとできません。 特に若者にとっても仕事を探すのは難しく、高学歴の人はドイツやスイスへ移住していい職を探そうとしています。また、大学生はスロベニア人の場合、修士課程までは無料で通えますが、博士課程の場合、全生徒は2000€ほど学費を払っています。しかし、今年の3月から政府は大学へ援助を辞める事を発表し、ノヴァゴリッツァの学生は学部から2000€払わないといけないそうです。 以前物価を紹介した記事を載せましたけど、少しずつ値段が変わっています。 バスも一回乗るたびに、1.2€になり、学生ボンもあるところでは値上げしています。あるところはコーヒーが1,8€になってしまいました。野菜なども、少しずつですが値上げされています。なのに、収入は下がる一方で、仕事がないという状況です。また、銀行のアカウントもマイナスを記録する事もある中、そこでスロベニア人達がデモを起こしたわけです。 物価は日本より安いと思いますが、住んでみると当然の事ながら収入も低いんですよね。 この危機は今に始まった事ではないと言いますけど、心配な状況です。 しかし、12月、ここはveseli decemberといって、happy decemberという事なのですが、街の中心は、特に夜に連日人で賑わいました。 ホットワインを片手にイルミネーションを眺めるひとでごった返してました。お店ではクリスマスのプレゼントやセールの商品を狙って沢山買い物をする人もいたし。人の話ですが、実際40%の人はもろに影響を受けているそうですけど、あとはそこまで深刻な事態ではない

ハンガリー動乱と(ちょっと)ユーゴスラビア

先日ハンガリー動乱についてのレポートを書いていました。恥ずかしながら、ハンガリーに行った事はありますが、歴史的に詳しく知らなかったので初めは色々難しかったのですが、調べるうちに楽しくなってしまって、非常に充実した課題でした。 ハンガリー動乱というのは、1956年の10月23日に始まり11月4日に集結した革命です。 正式には11月7日に終結しましたが、この事件を語る時には一般的に11月4日にソ連軍がブダペストに攻撃した時の事を終結と意味するそうです。この革命は、冷戦下の東ブロックでは重要な革命でした。なぜならば、第二次世界大戦後初めて本格的な、ソ連共産主義に対する抵抗だったからです。 第二次世界大戦時、ハンガリーは枢軸国に支持しており、敗戦後はソ連の影響下に置かれました。戦後戦勝国どうしの対立から、世界は東と西に分裂。共産主義を支持するソ連を中心とした東ブロック、資本主義を支持するアメリカ、西ヨーロッパの西ブロックに分裂したのです。このようなプロセスを経て、冷戦に発展しました。 スターリニズムといった政治モデルをそのままハンガリーに応用した結果、ハンガリー市民の生活は困窮しました。当時のリーダー、マーシャル・ラコーシは秘密警察を結成し、一党独裁政治を設立しました。経済も計画経済に移行したのですが、その結果、店には商品がなく、市民は食券なるものをもってわずかな食料を求め何時間も並ぶ日々。特に農民の生活は苦しく、秘密警察監視のもと多重な税金を納めなければ成らず、多くの農民は海外へ移住したそうです。 教育システムも共産主義のスローガンを教え込まれるなど、徹底したものでした。大学では西側の資料を手に入れる事ができず、徹底的に西から閉ざされ、言論の自由も奪われた環境だったのです。 ハンガリーだけではなく、他の旧共産圏、チェコスロバキア、ポーランド、東ドイツなども市民の生活は苦しく、スターリンの死後、各地で暴動が起こりました。初めは東ベルリンの労働者によるものです。彼らの勤務環境の劣悪さなどから暴動を起こし、ソ連軍が鎮圧しましたが、ハンガリーやチェコスロバキアにもその影響は広がったのです 。 そこで、スターリン死後新たなリーダーとなったのが、ニキータ・フルシチョフでした。彼はスターリンが作り上げた厳しい体制を緩和していく事を表明。一